その男、王蛇
浅倉威について
なんとなく昔からずっと仮面ライダー王蛇が好きで。その好きは多分更新されることがない。
NHKが行った人気投票*1では看板キャラである龍騎(46位)ナイト(35位)を抑え27位と作品内1位ということで「あぁやっぱ人気なんだなぁ」とそう思う。
強さは正義とでもいうか、幼少期にあんなもん見させられたらそれはもう印象に残る。
「イライラするんだよ…」と気怠げに首を回すと、手に持ったベノサーベルを投げ捨て、両手を広げ、姿勢は低く走り寄り、空高く飛び上がるとともに、ベノスネーカーの吐く毒液を後押しにベノクラッシュ!(バタ脚キック)
岡本次郎さんの重厚なアクションもさることながら、素面を演じるもかなりセクシー(上裸蛇皮ジャケ)だし、女性人気も高いと思う。北岡との絡みもあるしね。
とまあ、その魅力は今更説明するまでもないことだろう。
だがしかし、浅倉威は極悪人である。
超・極悪人である。
劇場版では霧島美穂の姉を◯してるし、TV本編でも手塚の友人を◯してる。
実の弟だってなんの躊躇いもなく◯す。
その凶暴性はライダーバトルにおいても発揮され、実際に3人ものライダーを葬り、バトルの進行を早める役を負った。
「ライダーがそれぞれ己の願いのために戦う」『龍騎』の作中において、浅倉に至ってはその願いすらない。
「戦いを続けること」が願いであり、他のライダーにとっては願いを叶えるための“手段”である戦いが、王蛇にとっては“目的”そのもの。
『仮面ライダークウガ』における怪人•グロンギは超古代の封印から蘇った戦闘民族だが、第34・35話に登場するゴ・ジャラジ・ダは、当時の時代背景として世間から叫ばれていた「キレる17歳」凶悪な少年犯罪が下敷きにあった、というのはまず間違いないと思われる。
一方、『仮面ライダー龍騎』は2001年「アメリカ同時多発テロ」その後年に作られた作品である。
9.11を仮面ライダーはどう捉えたのか 石ノ森が危惧した「正義の描き方」(2/2)〈AERA〉 | AERA dot. (アエラドット)
特オタの界隈に居ると「性善説」「性悪説」の言葉をよく飛び交っているのを見る。
これは言ってしまえば大昔の儒学者である孟子や荀子が掲げた、スローガンのようなもの。
また「ハヴィガーストの6つの発達段階」というものがある。
これはもう少し最近の教育学者で、ロバート・J・ハヴィガーストさんが提唱したもの。
人間の、人生の段階を6つに区分して、その段階ごと、社会的役割や習得するべき身体的技量などが具体的に示してある。
この第一段階、①乳幼児期の発達課題には一つ「社会や事物についての単純な概念の形成、善悪の区別と良心の学習」というものがある。
何が言いたいかというと、善悪とは社会が形成されるなかで生まれる価値基準であり、それは自らが獲得するものであるということ。
これは性善説も性悪説も同じだし、決して「人間の本質って悪なんだぜwぐへへww」などということではないのだ。
“ライダー同士の戦い”という社会では浅倉威は真の意味で善でも悪でもない。
「『龍騎』はライダー=怪人なんだよ、本当は。怪人同士が戦ってるみたいなもんなんだよな」
浅倉威は、長野から出土した超古代民族でもなければ、過激派テロ組織の一員でもなく、思春期の若者でもない。
主人公達と会話もするし、食事もする。ただ花を差し出されてもその意味を理解しない男。