「展開が先読み出来る」という批判について

ミニコラム

 

セイバー放送中、箇条書きで「先読み出来る展開」みたいに批判点を書き連ねてあげつらったツイートがあった。

個人的には『セイバー』に関しては「先読み出来る」ってことはねーだろと思ってるが、ツイートされた時期的に「仲間割れ5番勝負してるけど最終的にどうせ仲間に戻るんだろ」とか「暴走フォーム展開やってるけどまたどうせ克服して新フォーム出すんだろ」みたいなことが「先読み出来る」ツイートの真意だったのではないだろうかと思う。

おそらくそこには「ストレスの溜まる展開(物語のトンネル)を見たくない」とか「毎年同じ展開で飽きた」とかの軟弱な思想も含まれている。

 確かに『セイバー』はありきたりでつまらなく普遍的な綺麗事ばかり言う退屈でしょーもない作品として幕を下ろしたが、「先読み出来る」というのは単純にイキって聞こえるし、じゃあお前は「イザクが巨大本から民衆に戦争するように呼び掛けるが全無視される(まぁいいでしょう)」って展開を予想出来てたのかよ!?となる。

 つまりは言葉選びがミスってるよねって話になるのだが、やることがあまり定まらないライダーの3クール目において「暴走フォームが慣例化している件」この件に関しては注目をしておきたい。暴走フォーム所謂中間フォームだが、年々増え続けるこれらの販促の最適な解はまだ見つかって無いのではないだろうか?暴走フォームというのは一つの魅せ方であり、それを意図して慣例化=フォーマット化したいのか、意図はしてないが仕方なく前例に倣っただけなのかで評価は分かれると思う。

 だからまぁセイバーの批評がしたいわけではなく悪魔でコラム的思考段階なのだが「暴走フォームが登場してそれを克服する」というのは面白いかは別としてドラマとしての起伏が作りやすいのは事実。『ビルド』では重ねがけの上位新フォーム、『ゼロワン』では新武器の剣だったが『セイバー』でも新フォームを出すことで暴走フォームを克服していた。前2つの大森ライダーの克服法が半分他力だったのに対し、セイバーは主人公の小説家スキルで暴走フォームを懐柔ということで、少し新しい方法で上書きしたつもりなのかもしれない。(ご都合主義には変わりはないけど)

 フォーマットを作ろうとすること自体は良いことではないだろうかと思う反面、視聴者の声は「またこれか」が多数だった。仮面ライダーシリーズが昭和ライダーへのカウンター、前作へのカウンターというのを繰り返して来たシリーズだというのを差し引いても「新しい物語が観たい」というのは多分シリーズ作品というものを追いかけるオタクにとっては当然生まれ得る感情なのだと思う。

チェンソーマン』『シャン・チー』等、過去の名作を巧くマッシュアップして新しい物語にしたてる作品が出てくる一方「これやっとけばみんな喜ぶんでしょ」的な浅い地平をライダーが眺めてるうちは、とてもご期待下さいとは言えないよねという話。

 

つまり、展開の多さを強みにしながらどこかで見たようなありきたりな展開ばかりのビルドはクソ。

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スプラトゥーン3楽しみ